新雪
 クイーンは、数週前から、ゲドと共に要人警護のミッションについていた。
 ハルモニアの要職にあるその人物が、秘密裏に第十二小隊の管轄地域から、ずっと北上してデュナン共和国のハイランド県国境付近まで向かう為、その警護を依頼されたのだった。
 伏せられた外交工作であるために、供の者は最小限に抑えられ、しかも警護する側は表立って付き添うことができないのだという。
 当初は小隊で警護する予定だったのだが、人数の多さが万一にも人目を引くと危険だという理由で数を減らされ、結局ゲドとクイーンが付いて旅立つ事になったのである。
 北の地方を見たことがないアイラなどは特に付いて行きたがったのだが、今回は別のミッションをジョーカーらと請け負うという理由で何とか納得させ、二人は要人の出立に合わせて準備を進めた。
 そして以来があってから半月後、二人は静かにカレリアから姿を消した。
 道中、絶えず周囲の気配に神経を尖らせて、付かず離れず要人の警護に当たったが、幸いというべきか、警護の対象者が危険に遭遇することは一度もなく、順調に旅が続いた。
 片道二週間の行程だった。幾つかの山を越え、その度にカレリアでは感じることのなかった真冬の厳しさが肌にようやく馴染むようになった頃、ようやく要人はハイランドの国境付近にある小さな街に到着し、二人は任務を完遂した。
 次の護衛者に会う必要はない。ただ町に着きさえすれば任務は終了となる。後は無関係、そう聞かされていた。
 彼らの役目は終わり、後はカレリアに帰還すれば、報酬を受け取ることが出来る契約になっていた。
 いつもの任務よりもさらに細やかに神経を遣うことが多かった分、クイーンは開放感からほっと息をつき、到着した街の雑踏に消えてゆく要人の背中を見送った。
 そして、傍らのゲドを見上げる。
「さて、どうする?今からすぐに引き返すかい」
 すぐにこの街を発てば、日暮れまでに山を一つぐらいなら越えられるかもしれない。
 だが、ゲドは軽くかぶりを振った。
「いや……少し、様子を見よう」
 そう言って、ゲドが見上げた先の空は、奇妙に重く沈んだ白い色をしていた。


 ひとまず、手近にあった質素な宿屋兼酒場のカウンターに腰を落ち着け、二人は冷え切った身体を温める事にした。
 亭主に酒を頼む。人目で余所者と分かる二人の身なりを胡散臭そうにじろじろと見た亭主は、だが何も言わずに温めたワインを出した。
 狭い酒場の中は、地元の人間らしき者達が気安い雰囲気で騒いでいるが、中には数人、ゲド達のように異質な空気をまとって酒を啜っている者もいた。
 今日ばかりは、亭主も口うるさく咎められないのだろう。クイーンはそう考えながら、ゲドとグラスを重ねた。
「来るべき新年に、ということにしとこうか」
「そうだな」
 僅かに笑みを交わして、暖かい液体に口をつける。冷えて痛いほどの喉に、沁みるようなワインが心地良かった。
 今日は、一年の最後の日だった。そして日が暮れれば、暦が改まり、新年がやってくる。
 曇り空の上にある太陽は、既に西に向かい始めている筈だった。
 新年を待ちかねた人々は寒さも忘れて慌しく動き回り、どこか浮き足立っている。
 その気分はハイランドの外れにあるこの寂れた街を一時華やかな気分で包み込み、楽しいお祭気分を醸し出していた。
 いつもよりも街道を行き交う旅人の数も多いのだろう、ゲドとクイーンのような旅支度の人間がいても、さほど目立たない。
 あるいはそれも見越して用意された任務だったのかもしれないな、と思いかけ、クイーンは苦笑してその考えを追い払った。
 もう終わった仕事だ。今は、このシュチュエーションを楽しまない手はない。
 何しろ、遠い地でゲドと二人きり、なのだ。
 当のゲドにそんな気はあるのかないのか、黙々と酒を飲む男を横目で見て、クイーンは笑みをグラスの中に落とした。
「あんたと遠出をするのは、これが初めてだね」
「そうだな」
 試しに、口に出して言ってみると、思ったとおりの素っ気無い返答があって、クイーンは笑ったまま酒を飲み干した。
 ゲドが、ふいに動いて椅子から立ち上がり、店の奥にいる亭主のほうへと歩いてゆく。それを目で追いながら、クイーンは手酌で酒を注いだ。
 ゲドが亭主と何事かを手短にやり取りして、すぐに引き返してくる。再び椅子に腰を降ろしたのを見計らって声を投げた。
「何?」
「外の天気の具合を聞いただけだ。……やはり、今日はいつもよりも冷えているようだな」
「ここまで厳しいとは思ってなかったから、ほとんど備えてこなかったね。ちょっと不味いことをしたよ」
 結露で擦りガラスのようになった酒場の窓の向こうを見ると、白く濁った空の色だけ判別できた。
「雨でも降るかね?」
「いや、多分……」
 ゲドは言葉を切り、口元に酒を運んだ。それきり言葉を続けようとしない男の性格に、既に馴染んでいるクイーンはさして気に留めず、空いたグラスに酒を注いでやる。そして、話題を別の方向へと切り替えた。
「この街は初めて来たけど、夏になれば結構景色の楽しめそうなところだね」
「デュナン共和国の有力者の別荘が多いというだけのことはある、ということだろうな」
 とりとめなく話を続けながら、交互に酒を注ぎあって、カレリアにいるときと変わらずに酒を飲む。
 そうやって過ごしているうちに、もうすぐ新年を迎える。
 ゲドと言葉を交わしながらその事に改めて思いが至って、クイーンは嬉しさとやりきれない気分が半々に混ざるのを感じた。
 ゲドとの歳月が積み重なっていくということは、時間に背後から追いかけられているということでもある。
 あの戦いが終わった後も、ゲドは迷い続けている。
 まだその手には、真なる紋章が息づいていた。……つまり、不老のままということだ。
 ゲドの身体を通り過ぎる時間は、クイーンには少しずつ、けれど確実に老いをもたらす。
 こうして、あと幾度、ゲドとともに年を数えられるのだろう?
 好きな男の傍で過ごす喜びを単純に噛み締められない自分が切なかった。
 臆病な女は御免だ、そう自分を叱咤して顔を上げたクイーンは、酒場の連中が騒いでいるのに気付き、そちらに顔を向けた。
 ゲドもそちらに視線を向けている。その横顔を見たクイーンに、ゲドは顔を向けて言った。
「どうやら降ってきたようだな」
「もしかして、雪、かい?」
 底冷えする寒さと、奇妙に白っぽかった空模様を思い出し、クイーンが問い掛けると、ゲドは頷きを返した。
 酒場の亭主が外の様子を見ようとして開けた扉の向こうに目を凝らすと、まだ小さいが、確かに白いものがちらついている。
「この辺りでも雪が降るとは知らなかったよ」
「さっき亭主に聞いたが、ここ何年もそういうことは無かったそうだ」
 周りにいた旅人たちが慌てて勘定を済ませて酒場を出て行くのを見ながら、クイーンはゲドに問い掛けた。
「あたしたちも、そろそろ出るかい?」
 ゲドは、何故か一瞬ためらいを見せた後に、己の荷物を手に取った。
「いや……、その必要はない」
「どうして」
 思わず聞き返してしまったクイーンの顔を見ずに、そっぽを向いたゲドは短く言葉を返した。
「もう部屋を取ってある」
「――ゲド?」
「ここの二階だ。……雪が積もって足止めを食った連中で満室になる前に、さっき亭主に一晩頼んでおいた」
 その意を理解したクイーンは、可笑しさで湧き上がる笑みを抑えられずに、口元を手で隠した。
「じゃあゲド、あんたは宿に着いた早々に、雪が降ることを予想していて、部屋を頼んでおいたって訳かい?」
「……まあ、そうだ」
「呆れたね」
 ついに声に出して笑ってしまったクイーンに、憮然としたゲドが、逆に
「そんなに急いで帰る必要もあるまい?」
 と反論してきた。
 クイーンは頷き、自分の荷物を手にとって席から立った。
「たまには気の利いた真似をするじゃないか、ゲド」


 狭くて薄汚れた部屋に寝台が二つ。それで一杯の部屋だったが、二人にはそれで充分だった。
 めいめいの荷物を降ろして旅装を解き、寝台に腰掛けて一息ついたクイーンは、窓の外を見遣った。
 先刻よりも、雪の粒が大きくなり、量も増えているようである。
「アイラを連れてくれば、喜んだかもしれないね」
 荷解きをしていたゲドは、その作業に一段落つけて、クイーンの傍らに腰を降ろした。
「それはまた次の機会だな」
 ゲドの手がクイーンの髪を梳き、頬に触れてくる。
「……積もるかもしれない」
 クイーンは目を閉じてゲドと軽く唇を重ね、囁いた。
「その時は、雪が融けるまでここにいればいい」
「悪くないね」
 密やかに笑い合い、再び唇を重ねて、寝台の上に倒れ込んだ。


 次に目覚める時には、新年を迎えているだろう。
 限りある一時をゲドと共に過ごす。
 その喜びと切なさは、ゲドと居る限り、クイーンが逃れられないものだった。
 新雪に包まれて、その年は終わりを告げ、やがて新しい年が始まったのである。